てげてげせんせー

どうも、きょういくなんでもやです

  • TOP
  • テキトー教育
  • 先生退職→学校設立
  • 学習会のお知らせ
  • テーマテキトー
  • MENU

    自分探しの旅は終わりなき旅

    先生を辞めて思うのは

    「どんな自分でありたいか?」

    が決定的に欠けていたこと。

    f:id:runrungogo8931:20190912205849j:image
    これしかない!と思って先生になったが、本当にやりたいことではないと思ったから辞めた。

    仕事は、在り方の手段。

    本当にやりたいことは

    やりたい!ワクワク!を応援すること。

     

    なぜ、先生という仕事ではワクワクできなかったのだろう?

    誰かのやりたいを応援できなかったのだろう?


    1日中、子どもたちと楽しく授業をして、日々成長していく子どもたち。学級では、必死に話合いをしたり、イベントで盛り上がったり。学級崩壊をしていた子たちも、応援し合う学級になった。

     

    こんなに日々ワクワクする先生という仕事から、ワクワクが薄れていったのは、いつからだろう?

    何が原因だったんだろう?


    やりたくて休日出勤もしていたし、

    900人分の体力調査の結果分析報告も1日かけてでも犠牲感を拭うことができていた。

    そこに「やりがい」はたしかにあった。

    なぜだろう?

     

    やればやるほど授業もうまくなるし、子どもたちも成長していくし、それがぼくにとってのワクワクであり、やりがいだった。

    対外的な研究会などで他の先生方からも認められる機会も増えた。

    これからどんどん楽しくなるな〜?

    もっと研究していきたいな〜!

    そう思っていた。

     

    3年目くらいからだろうか?

    やればやるほどよくなっていくと同時に、任される仕事が増えてきた。

    信頼の証として捉えるべきなのかもしれないが、ぼくにとってはそうじゃなかった。


    「これって、何の意味があるの?」

    「本当に子どもたちのため?」

    「もっと子どもたちのためにできることあるでしょ」

     

    そういう視点をもってしまったら、改善点ばかりが見えてきて、「当たり前」と思っていたことも、当たり前とは思えなくなってきた。

    今まで以上に外に出てみた。

    Twitter上の情報は、拍車をかけた。

    ぼくはこれまで思考停止していたんだと。いや、思考停止していたままの方がよかったのかもしれない。

     

    でもなんとかしなくては!と思っても、なんともできない自分の無力さ、未熟さに気付いてしまった。

    牙城を崩していこう!と思っていたけど、それは間違いで、一緒につくっていかないといけなかった。

    こういう課題があって、こうすればよくなっていくという正論では逆効果。そこに「心」がなかった。

     

    自分がいい実践をすれば、子どもたちの圧倒的な姿を見てもらえれば、自ずとよくなっていくだろうと。

    でも、学校にはいろんな先生がいて、それぞれの文脈があって。

    ぼくは、そこに対する配慮が足りていかなかったのだと思う。

    「あなたはできても、他の先生はできるの?」その意味が今なら分かる。

     

    先生という仕事に就いた以上、できることは、プライドをもってほしいと思うことはあった。

    毎年学級崩壊したり、校務分掌を持たなかったりと。

    でもその先生たちは、自分で精一杯なんだと。明らかに「余裕」がない。

    学校を変えなきゃ!の前段階があった。

    まずは、同僚の働きやすさからだと。

     

    しかし、いくらパートナーシップをとったとしても、絶対的な仕事量が減らないと、気持ちの負担は減っても、実質的な負担は減らない。

    その意味で働き方改革は急務で、単純に勤務時間減らしましょうではなく、"生産性"の追求が必要。

    先生も子どもたちもワクワクするには、"生産性"を上げなければ。

     

    「教師たるもの、生産性追求なんて」と言っている人はおいといて、

    少ない時間でより結果を出す

    「努力をすればするほど結果が出る」も真だけど、今の学校のシステムにはそぐわなくなってきている。

    今は転換期。

    生産性の追求に心を込める。

    学校は、機械生産のような効率だけではない。

     

    学校には、「」の心がある。

    ICTやAIが発展しており、使えるところはもちろん使う。

    でも、最終的には、人と人で。

    人のつながり

    心あるものが動く。

    子ども、先生、保護者、地域。

    いろんな人たちのつながり。

    そういった意味で、

    「社会に開かれた学校」はコンセプトとしてはいい。

    でも、聞いてみると、実は地域にもそんな余裕はないというではないか。

    自分の生活が精一杯で、話し合ってる暇はないと。

    教育は学校にお任せで責任はもちたくない。

    どこのコミュニティもそういう問題はあるのか。

    みんな自分が生きるのが精一杯。

    となると、

    ぼくにできることはなんだろう?

    (いまここ)

     

    半年後の人生さえ見えていないぼくだけど、来年は学校に戻りたいと思っている。一つのコミュニティだけでは解決しない。いろんな人のいろんな考えを反映させるには、複数の居場所に属していて、「つなぐ」役割が必要だと。

    そうだ!

    ぼくは「つなぎたい」んだな〜

    ということがここ最近見えてきた。

    f:id:runrungogo8931:20190912205605j:image

    っていう2ヶ月前の自分。

    これからは本格的に学校現場のお手伝いをさせてもらえそうかな。

    少しずつ少しずつ妄想がカタチになっていく。

    でも、まだまだ終わらないし、きっとこれからも終わることはないんだな。

    この自分探しの旅は。

     

     

    追記


    原体験が大切っていう言葉が心に残りまくってるんだけど、

    先生時代の学級だよりの名前は、

    リレー〜継〜」でした。

    今も気付けばそうで。

    ぼくは、「つなぐ」ことを大切にしているんだなと。

    何かを壊そうとしていたけど、そうじゃなくて、これからもつなぐことを大切にしていこうと思う。