「スタンダード」で「ぼく」が生まれた
はっきり言ってスタンダードは嫌いだ。
型通りに型通りにってうるせーなと思ってた。(謙虚にいこうね)
先生やってるとき
学習指導要領(CS)確認しんどいなと思うことがあった。
CSなんて要らんって思うこともあった。
先生辞めて何の縛りもなくなった今
CSのありがたさに気付く。
無くなって初めて実感するんだ。
「何を教えるか」
0から考える難しさも分かった。
そしていつのまにか
CSを振り返る自分がいた。
0から教育を考えるって難しい。
CSや「スタンダード」はすごく役立つ
固執するのは反対だけど
目の前の子どもに柔軟に対応するのがプロの教師だから。
だけど
初任者や自信のない先生は
目の前の子どもを置き去りにしない程度に「スタンダード」を参考にし
少しずつ自分の色をだしていけばいいんじゃないかな?
1番の教育専門家は教師であってほしい。
プロのプライドをもってほしい。
これがぼくの強い想いだ。
だけど
"子ども"の1番の教育専門家は「親」だ。
親はCSやスタンダードなど
教育の「道しるべ」がない。
自分の被教育体験に頼るしかない。
「何を教えるか」の拠り所がない。
家庭教育にもスタンダードがあれば?
家庭教育の質を担保できるのではないか?
でも
項目多すぎてもストレスになる。
「何を教えるか」ではなく
「どう教えるか」のスタンダードがあれば
親も少しは安心して教育を楽しめるのではないか?
そうすれば
「教育は学校にお任せ」なんては言葉消えるかもしれない。
ではなぜ先生時代
スタンダードがイヤだったのか?
"スタンダードのスタンダード"があったからだ
自治体,学校独自のやり方で
目の前の子どもを置き去りにし思考停止したパターンのスタンダード。
あんなの教育じゃない飼い慣らしだ。
子どもは人間だ
ロボットじゃない
心があるんだ。
でも今ならやれるはず。
どっぷり浸かった学校文化を外から眺めてきた今なら
学校文化に染まったように見せかけて染まらず動ける気がする、
いい感じに学校色が抜けてバランスがとれてきている感覚はある。
でもまだだ。
1年でぼく個人は変わったとしても
学校文化が変わっているはずもない。
文化を整えるには相当な時間を要するから。
まだ外から眺めていこう。
少しずつ学校もうかがっていこう。
時間がかかるんだ。
時間がかかるのが当たり前なんだ。
この前提を手に入れた今
自分にできることは何か?
ターゲットのニーズは何か?
やるべきことは何か?
用意周到に積み重ねていく必要がある。
準備と覚悟ができたとき
ぼくは公教育に戻るだろう。
※学習指導要領は「縛り」ではないです。
しっかり読み込めば分かります。
縛っているのは自分自身でしかないです。